タイ王国の非常事態宣言と大量検挙 (その3) 一応は解除されたものの


タイ王国非常事態宣言と大量検挙(抄)
ウボン中央刑務所の「赤シャツ?」たち     ウボン日記~その7
            ウボンラ-チャターニー大学教養学部                      東洋言語文学科講師 高橋 勝幸
(その3)
「男性」面談記録のつづき…
 
男性:(617日、723日) 
52歳。ワーリン在住。日雇い。チャックトンロップ会員。525日に逮捕され、勾留されて12日になる。焼き討ち、武器不法所持、爆発物所持の容疑。519日県庁で石を握っている写真が証拠となった。その日、県庁そばの寺の前にいた。子供を2時ごろ学校へ迎えに来たのだ。銃声を聞いて、走って県庁敷地に入った。怒って、思わず地面に転がっている石を握った。火はまだ上がっていなかった。火災を目撃していない。自分も妻もムスリム。妻はナラティワート県出身。妻の先夫は軍人で国境警備のため、ワーリンの基地に異動になった。彼は妻子に対して責任を果たさなかったので、自分は彼女に同情し、結婚した。子供をもうけた。先夫との間の4歳、15歳の子と、自分との間の13ヶ月の子がいる。父親の自分が逮捕されたので、子供は学校に通っていない。誰も見舞いに来ない。電話番号もわからない。妻子は親戚を頼りにナラティワートに帰った。(落涙。両手の指を金網に絡ませながら、切々と訴えていた。)79歳の母がワーリンにいる。援助が必要だ。自分も肺が一つしかなく、持病がある。刑務所に裁判員が来て、勾留は延長された。持病を理由に保釈を要求したが、検討するとのことだ。自分は国王の色である黄色を尊敬した。しかし、黄シャツが首相府を占拠して以来、黄シャツを憎悪するようになった。自分は貧乏なので、赤シャツに参加した。母と家族の幸せを祈っている。
 
男性[1]:(617日) 
50歳。チャックトンロップのラジオ「ウボンの人民の声放送」の警備員。月給3,000バーツ(食住支給)。520日昼に捕まった。放送機器が没収された。ラジオ放送による教唆、大衆騒乱の容疑。県庁の焼き討ちについては知らない。312日から48日まで王宮前広場でデモに参加した。仕事柄、赤シャツを支持している。赤シャツの意見は正しいと思う。監房には仏像と国王の写真があり、仏を敬っている。チャチョーンサオ県出身。仕事を探しに2007年にウボンに来た。
 [1] 男性⑦は当局を訴えたが、裁判所が忙しいため20112月が初公判となる[ピチェート・ターブッダとのインタビュー、2010728]
 
男性:(617日、728日) 
26歳。ガス輸送車運転。チャックトンロップ会員(1か月)。中学6年卒。警察からの電話に応じて出頭し、そのまま収容された。516日空軍基地前、19日スタット民主党議員の家の付近にいるところを写真に撮られた。赤シャツが反対運動をしていた。仕事中に通りがかり、ちょっと寄ったに過ぎない。

 
男性:(617日) 
日雇い(小作含む)。チャックトンロップ会員。612日から勾留。焼き討ちの容疑。519日当日、自分はタラートノーイ(市場)にいた。証拠写真も似ているが、自分ではない。サンティ・アソークへの抗議運動にも行っていない。王宮前広場のデモには2-3日行った。小5、中1、中33人の子がいる。妻は腰を痛め、働けない。自分なしでは、家族は食べられない
 
男性:(617日、729日) 
40歳。市内在住。建築業。大卒(経営学部)。ノーポーチョー(反独裁民主戦線の東北タイ副責任者(ウボン、シーサケート、アムナートチャローン、スリン、ブリーラム県担当)。525日より収容。容疑はタイヤを燃やしたこと(国営テレビ局NBT前)、交通妨害、10人以上の集会参加、県庁焼き討ち、騒乱、武器不法所持証拠はNBT前の写真と言っているが別の場所知り合いの警官は「捕まえるほどの容疑ではないが、リーダーの一人なので捕まえた」と言っている。519日はウボンにあるノーポーチョーのFMラジオ局にいた。「人民を殺すな」というプラカードを作成して、仲間に持たせた。鎮火した夕方に、県庁に行った20人の証人がいるというが、誰だか、日時、場所がわからない。事実より、罪が重い。全く弁明の権利がない。県庁焼き討ちには策謀があるように思われる。何らかの合意があったのではないだろうか。当局の要請があったのではないか。というのも、当初、騒ぎを取り締まる動きがなかった。警告もなかった。予告なしに不意に銃撃を始め、集まっていた人々を怒らせた。県庁には35千の軍警がいたが、赤シャツが庁舎に侵入し、放火するのを放置していた。消防車が無かった。写真にある消防車は古く、使いものにならず、長い間放置されていたものだ。火事が起こるのを事前に知っていたように、県庁舎の近くにあった変圧器は外されていた[2]
[2] 火事の前に、庁舎内のコンピュータ、文書は運び出されたともいう[ピチェートとのインタビュー]
 
男性⑪:(617日)
シームアンマイ郡在住。赤シャツの活動に参加したことがない。警察が捕まえたのは、519日に県庁が燃えたときの写真に自分に似た男の顔があったからだ。国民証の写真と比べ、逮捕した。当日は家で仕事をしていてどこにも行っていない。証人がいる。しかし、無実を釈明する機会が一切無い
 
男性⑫:(617日)
20歳。ムアン郡在住。519日、県庁の集会に参加した。しかし、外の離れたところにいた。警察は通報者がいるという。
 
男性⑬:(617日、728日)
35歳。ワーリン郡在住。バイク修理。チャックトンロップ会員。小学校6年卒。525日から収容されている。容疑は集会への参加。519日の県庁の集会に参加した。県庁の外にいた。自分が写った写真があった。保釈を要求したが、認められなかった。勾留は2ヶ月を超え、人道にもとる。理想に共鳴して、赤シャツに参加した。祖母、妻、中3と小4の子がいる。妻一人で家計を支えている
 
男性⑭:(617日、723)
62。市内在住。廃品回収業。日雇い。チャックトンロップ会員。出頭命令に応じ、自首。611日から勾留。容疑は10人以上の集会参加。519日、県庁前でバイクの写真を撮られた。当日、集会に参加し、県庁に火がつく前に帰った。まだ裁判ない。バンコクには2回行き、20日間滞在した。疲れたり、お金が尽きたりすると帰った。お金はもらっていない。赤シャツのウドムガーン(理想)に賛同。公正が好きで赤シャツに参加した。生活に問題ない。手足が不自由である。家族いない。妹に3人の子がいる。
 
男性⑮:(722日)
29歳。建築業。警察が自宅を訪問し、逮捕令状を示した。79日から収容。容疑は 10人以上の集会参加、 5 16タイヤを燃やした、と。証拠写真に、自分の車のナンバー・プレートがあった。ピックアップである。その日、500バーツで雇われて、自分の車でタイヤを運んだだけ。5分くらい滞在した。赤シャツだが、どのグループにも所属していない。19日の集会には参加していない。赤シャツの理想に共鳴。タクシンが好き。タクシンはよい人。プアタイ党を支持。
 
男性⑯:(722日)
58歳。シーサケート県カンタラーロム郡在住。農民。チャックトンロップ会員(1ヶ月)。68日から収容。容疑は 10人以上の集会参加、非常事態宣言違反。証拠写真があった。516日に空軍基地前の集会に参加した。用事で外出し、10分だけ寄ったにすぎない。バンコクの集会に行っていない。タクシンが好き。
 
男性⑰:(722日)
59歳。農民68日から収容。容疑は10人以上の集会参加、騒乱。証拠写真があった。516日に空軍基地の集会に参加したが、19日は参加していない。赤シャツだが、無所属。タクシンが好き。タクシンは30バーツ医療政策など人民を助けた。バンコクの集会には行っていない。
男性⑱:(722日)
58歳。シーサケート県カンタラーロム郡在住。農民。チャックトンロップ会員(1年)。68日から収容。容疑は10人以上の集会、タイヤを焼く、非常事態宣言違反。証拠写真があった。516日の空軍基地の集会に参加した。519日社会開発の研修で、集会に参加していない。収容生活は苦しい。正当な権利、保釈がない。バンコクの集会に行っていない。赤シャツに参加し、政府の不正、2重基準に反対した。自分の経済問題がきっかけで参加したのではない。正義を愛し、民主主義を要求している。騒乱目的でない。雇われているのではない。自腹で、食べ物はみんなで分けた。
 
男性⑲:(722日)
63。市内在住。果物の商売。チャックトンロップ会員(半年)。証拠写真があり、自首。68日から収容。容疑10人以上の集会参加。516日、空軍基地でデモに参加。民主主義のため公正を要求。人民に言論の権利がある。赤シャツの理想に共鳴し参加。理想とは友人を助け、正義、公正と生活を保障すること。バンコクの集会には行っていない。妻一人残す。バンコクに子供がいる。
 
男性⑳:(722日)
42歳。ワーリン郡在住。車の修理工。チャックトンロップ会員(7-8ヶ月)。68日から収容。容疑、10人以上の集会参加。516日の空軍基地の集会に参加した。1回目の裁判、容疑を聞くだけ。赤シャツの理想に共鳴。不正の追及、助け合い。自転車、衣服の寄付活動をした。バンコクの集会には時間がないので行っていない。なぜ赤シャツだけ保釈が認められないのか。微罪だ。人を殺しても保釈される。政府に理由を問いたい。首相は何をしているのだ。同じ人間であり、タイ人である。老人もいる。無罪なら放免。公正を望む。収容所生活の苦しさを知ってほしい。これまでよいことばかり考え、行動してきた。友人として、誰でも困っている人を助けた。ところが、テロリスト呼ばわりだ。農民、老人に武器はない。収容は子供、家族に影響する。妻仕事少ない。生活厳しい。男の子2人。子供には会えない。学校に専念させたい。
 
男性(21):(723)
65技術専門学校教師溶接)。チャックトンロップ会員(1年)。「人民の声放送」のDJ。キングモンクット工科大学工業経営学専攻修士証拠写真があり、自首した。民主党事務所前の集会で写っている写真。非常事態宣言違反、騒乱、10人以上の集会参加、民主党事務所前でタイヤを燃やしたという4つの容疑。519日午前10時以降、民主党事務所前の集会を見に行って、写真を撮った。そして、群集が法律に違反しないように監視した。集会は民主主義と公正を要求していた。裁判は3回受けた。1回目は検察が公訴した。2回目、3回目は裁判所が容疑を読み上げた。今、弁護士を立てているところ。自分は赤シャツではない。個人的な意見だが、赤シャツとは統一戦線を組んでいる。赤シャツとは、方法が違い、不正に反対し、地元で戦っている。プアタイ党と関係ない。その援助を知らない。DJとしては、CNNBCCアルジャジーラのタイの見方を紹介した。雇われてはいない。ガソリン代だけもらった。民主主義を愛し、政府批判はしていない。教唆もしていない。事実を知らせただけ。バンコクの集会にも、王宮前広場に23日行って、写真を撮った。ニュースリポーターのようなもの。時々夜、県庁前の集会にも参加した。タクシンの政策の8割に賛同。30バーツ医療制度、1村1品運動などは貧困、人民を助けた。反対なのは私欲をむさぼったこと。民衆はタクシン政府を支持。人民に直接届く政策を実行した。経済政策も人民に届いた。貧困者も金持ちも同じ平等。私が考えるに、民衆の赤シャツ支持は私的理由より政治的理想いよるものだろう。タイにはいまだ民主主義がない。タイは法的基準が平等でない。
 
 

(つづく)
 

9.11に疑問を持つと 日米ぐるみの【冤罪】へ… 山崎淑子さんの証言

米国の政治的報復のために?
日本の官憲によって逮捕投獄された山崎淑子さんの証言


◆ これは一体…
 公的な「逮捕」なのか? 恣意的な「拉致」なのか?

本当に 現代日本、現代アメリカの話なのか?と思うほど
とにかく凄い話です。

よくまぁ 死なず 狂わずに 生き延びて出てこられたものだ…。

「9.11」「ブッシュの戦争」「対米従属」「可視化」に関心のある方々は
是非ご覧下さい。
10~15辺りと 19だけでも …

(前半)
http://www.youtube.com/view_play_list?p=E429E62DFD0839F1
(後半)http://www.youtube.com/view_play_list?p=22230D971AFDFD56

(16)http://www.youtube.com/watch?v=9gqiGWkDCX8

○山崎淑子さんインタビュー(目次)
○2010年8月10日フリージャーナリスト岩上安身が米国の報復によって投獄された山崎淑子さん(「サラ」は米国での通称)にインタビューを行っています。
01 アメリカで働きはじめた経緯
02 9・11が起こる前のニューヨーク。かすかな疑心
03 散歩中の視界に、立ちのぼる黒煙。「第二の真珠湾だ!神風だ!テロだ!」
04 真珠湾という言葉から透けて見えた米国の思惑。崩壊しないはずのビルが!?
05 ラジオから消えてゆく『イマジン』
06 グランド・ゼロへ。地下からあがる炎
07 被災後の日々
08 真実を語ることの危険性。日本人からの警告
09 涙を浮かべる父親の姿を見て
10 違和感の連鎖。FBI・CIAによる家宅捜索
11 なだれ込んできた(日本の)検察。共謀罪の恐ろしさ
12 殺処分された愛犬。治療を拒まれ血に染まってゆく畳
13 日米犯罪人引渡し(不平等)条約の理不尽さ

14 弁護士Aの偽証
15 米国に縛られた手足。司法取引詐欺
16 いっさい弁護活動をしなかった国選ヤメ検弁護士。知的虐待
17 出獄した眼の前に立ちふさがる護送車、 別件での連続拘禁
18 出獄への見えない力。一切を奪われ囚人服のまま成田へ
19 生きる
20 いま伝えなければならないこと
21 日本の真実

○山崎淑子さんは去年、「谷川サラ」という仮名で以下の番組にも出演なさっています。
【TV朝日 サンデープロジェクト 2009年4月26日(日)11時頃
司法は誰のものか~「日米条約」と「日本の司法」~ ディレクター江南亮 プロデューサー上田未生】

この動画の再生リストはこちら。
http://www.youtube.com/view_play_list...

タイ王国の非常事態宣言と大量検挙 (その2)


タイ王国非常事態宣言と大量検挙(抄)
ウボン中央刑務所の「赤シャツ?」たち     ウボン日記~その7
            ウボンラ-チャターニー大学教養学部                      東洋言語文学科講師 高橋 勝幸
(その2)


女性:(617日) 
23歳。飲食店勤務。チャックトンロップ会員。スリン県のバスターミナルで逮捕。県外の友人から涙ながらの電話があった。何も知らない友人は警察に写真を突きつけられて、彼女の友人の居場所を聞かれたというのだ。勾留は524日から。容疑は県庁焼き討ちなど13項目。519日午後、民主党事務所、同党議員スタットの家、県庁と3箇所で反対運動に参加した。県庁にいるところを写真に撮られた。その日、県庁で兵が人民を銃撃したので、頭に血が上った。(涙ぐみながら)足を撃たれた人も、捕まって同じ監房にいる。撃った人はどうなっているの。6人が負傷し、一人は重傷だ。ゴム弾を使えばいいのに、実弾を使う必要はない。県庁は新しく建てることができる。しかし、家族は生命を取り戻せない。赤シャツはテロリストだといわれている。農民に武器はない。銃を売買しているというの。兄弟同志が民主主義を要求して立ち上がった。我慢ならなかった。監房ではニュースを知る権利もない。45日前にこっそり新聞を読んだ。


女性:(617日、722日) 
54歳。ワーリン郡在住。主婦。ノーポーチョー・ウボン。郡警に逮捕令状が出ている人の写真と名前を見に行って、捕まった。522日から収容されている。10人以上の政治集会参加、県庁焼き討ちの容疑。519日市内のサパシット病院に用事があり、市内に出たところ、多数の兵士が出動をするのを目撃した。10時半ごろである。そこで、県庁に行ってみた。私の夫もサパシット陸軍基地に勤務する陸軍1等准尉なので、軍人の知り合いが多い。同基地のピシット・シーサン大佐が県知事と一緒に県庁にいたので、掛け合った。ピシットは現場を監督し、兵に命令を下していた。私は「銃撃を止めなさい。人民を殺さないでください。暴力を使わないでください。同じタイ人なんだから、平和的に非暴力でいきましょう」と話した。私は銃声を聞いて、逃げ出した。銃撃は庁舎の2階からあった。別の部隊である。また、地上左側の木のそばにも別の部隊があった。この2つの部隊が銃撃した。ピシットは非武装で立って、命じていただけ。退却を命じた。ピシットの部隊は退却した。銃撃は散発的であった。県庁が燃え出す前に帰宅した。59日にラーチャプラソンバンコクの集会)からウボンに帰って、時間があればウボン県庁前の集会に出ていた。寝食の状況よくない。睡眠薬がないと眠れない。弁護士をつけてほしい。早く家に帰りたい。いくら高くてもいいから保釈してほしい。経済問題は無い。車も家も抵当に入れ、銀行から金を借りても、保釈金を払う用意がある。夫、親戚と人道活動家が慰問に来た。子供とは会わない。囚人服姿で子供に会いたくない。娘が心配で、恋しい。(胸がつまり、涙ぐむ。金網越しに握手を求める)


シニーナート・チョムプーサーペート(女性③:617日) 
29歳。ピブーンマンサーハーン郡在住。農民。野菜小売。廃品回収。日雇い。521日から収容。628日が3回目の期限。容疑は役所への侵入、公共物破損、県庁焼き討ち、非常事態宣言違反、公務執行妨害519日の集会に参加し、門と柵が壊れているのを見て、県庁舎前広場の草地に歩いて入っていった。すると、右足を銃弾が貫通した。一日入院し、2日間家で療養した。そして警察が自宅を訪問し、取り調べのために連行した。子供3人には買い物に行って、まもなく帰ると伝えた。80歳の祖母が6810歳の子の面倒を見ている。高齢者手当て月500バーツで暮らしている[1]

[1] 夫も赤シャツ活動家で逃亡中。募金活動により5万バーツが集まり、保釈を要求したが、裁判所は拒否した。裁判所は公務執行妨害、役所への侵入、公共物破損の3つの容疑で41人に逮捕令状発行し、6人が逮捕されているという。この3つの犯罪による刑は15年の禁固[“Mother jailed over riot denied bail,” The Nation, July 15, 2010]


女性④:(722日)
32歳。自営業。コピー、文書作成。チャックトンロップ会員。523日より収容されている。容疑は公共物破損。5 19 日県庁が燃える前、ラーマ5世像のそばで立っているのが証拠写真だ。県庁が燃えているときは、敷地の外にいた。武器ももっていない。平和的方法を用いた。その日、兵は棍棒で前進してくる赤シャツをたたきつけた。そして倒れた赤シャツを踏みつけた。国会解散を要求しているだけなのに。なぜだ。不満が高まった。銃声が聞こえた。もはや赤シャツは死を恐れなかった。力を見せ付けたかった。私は5世像あたりにいて、警備員、完全装備の武装兵を見た。催涙弾、銃をもっていた。兵は放水もせず、ゴム弾も使用せず、実弾を使った。独裁だ。2人が死亡したとのうわさが流れた。実際は死者はゼロだった。人民の税によってなる兵がなぜ。怒りは爆発した。ラーチャプラソンの死も怒りに油を注いだ。私は兵のそばに行って問責した。一部の人の怒りは県庁焼き討ちになった。赤シャツの一部の仕業であることは否定できない。特に若者は過激になっていた。子供も収容されているときく。私はバンコクにも王宮広場へ1回、4日間行った。赤シャツの理想に引かれた。二重基準に反発した。タクシン時代、学生奨学金が提供され、麻薬・犯罪取締りが行なわれた。今、犯罪が増えている。経済も違った。1日3,000バーツの稼ぎが1,000バーツに減った。ガソリン代も上がった。政策がよくない。最近までビジネスに関心があって、政治には無関心であった。テレビ、ネット、ラジオのおかげで、今年になって政治に関心を持つようになった。2つの対立を知った。国会解散の要求、410日の衝突、死者の発生。黄シャツは死者一人だったが、政府は責任を認めた。一方、今回は民主党政権は責任を認めない。90人が死んだ。これで民主主義か。チャックトンロップのリーダーであるトーイのラジオを聴いて、34回トーイの家で、お手伝いした。ガソリン代を稼ぐために、グループの商売を手伝った。プアタイ党とチャックトンロップは、個人的意見だが、関係ない。民主党は好きでない。タイ愛国党が好きだ。選挙があればプアタイ党に投票するだろう。プアタイ党の見舞いがなくても、気にしない。独身。父は他界し、母は病気。兄が世話をしているが、仕事があって十分でない。母は520日に交通事故で肩を負傷した。


女性⑤:(617日、722日)
57歳。ターンスム郡在住。農民。チャックトンロップ会員。63日朝、警官が自宅に来た。事情聴取を求められ、終われば自宅に送ると言っていた。ところが、警察署に着くと逮捕され、自白しなければ罪は重く、自白すれば釈放すると言っていた。容疑は5 19日スタット国会議員の家の前と空軍基地前の集会への参加とタイヤを燃やしたこと。証拠写真があった。実際は物を売りに出かけ、帰途、煙が上がっているの見て、スタットの家の前の人だかりに近づいただけ。着いた時には消えていた。空軍基地には行っていない。2年前に赤シャツに参加した。バンコクの集会に行っていない。お金が無いので、弁護士も雇っていないし、保釈も要求していない。貧血症だが薬の支給無し。逮捕されて、大学1年生の息子の学資に困る2人の孫の世話、学校の送り迎えもできない。
女性⑥:(722日)
40歳。主婦。チャックトンロップ会員。78日から収容。逮捕令状に応じて、自首した。逃げられない。空軍基地の集会参加、騒乱、その他の容疑。証拠写真は自分の写真ではない1時間だけ尋問があった。519日は家にいた。裁判は2回開かれた。容疑を聞かされた。長かった。次は 8 2日。赤シャツに今年参加した。バンコクに行っていない。活動していない
 
女性⑦:(722日)
42歳。ワーリン郡在住。主婦。野良犬の世話。植木の販売。チャックトンロップ会員(2ヶ月)。自宅で逮捕。524日から収容。容疑は非常事態宣言違反、騒乱、県庁焼き討ち。519日午前10時ごろ、民主党事務所前で演説した。「政府の統治はよくない。我々は政府のバンコクでの暴力行使に反対するために来た。公共財は破壊しない」と。次に県庁前の通りに行って、中に入っていない。車を燃やしたというが、外にいた。銃撃で倒れる人を見て、死を恐れ逃げた。火災の前に帰宅した。イギリスとタイの2つのパスポートを持つ。12年ロンドンに住んだ。夫はイギリス人で裁判を傍聴して帰った。13歳の男の子が一人いる。

女性⑧:(722日)
30歳。自営業(歯磨きなどの製造)。自首し、7 8日から収容。証拠写真に自分が所有する車519日は仕事の打ち合わせ(商品の紹介)があったので、集会に参加していない。県庁のそばに会社がある。駐車しただけ。赤シャツには517日から昼の集会に参加した。2人の子とおばあちゃんの世話がある
 
残された家族との面談
僕(健の友人高橋)はチャックトンロップのリーダーであるピチェート・ターブッダー(通称トーイ先生)の自宅に妻を3度訪ね、530日に1度会った。夫が重大な罪に問われている以上、彼女はうかつに僕と語るわけにはいかない。非常事態宣言布告前にも何度か行ったが、その時は、仲間が入れ代わり立ち代わり訪れ、食事をしたり、談話したり、作業をしたりしていた。何だか、チャオポー(地方のボス)の家とはこのようなものなのかなと、勝手に想像したりした。しかし、一斉逮捕後は全く閑散としていた。
  
715日、シニーナート・チョムプーサーペートの自宅に行った。彼女は、私たちの活動により、既に新聞、テレビで報道されているので、僕は実名を明らかにした。本当に田舎のあばら屋であった。こういうところから民主主義と公正を求めて、闘争に向かうのだなとしみじみ思った。祖母は言う。「なぜ、県庁を放火した人を射撃せずに、庁舎から150メートルも離れた所にいた孫を撃ったのか。」「消防署まで500メートルしか離れていないのに、どうして県庁が燃えているときに消防車が来ていなかったのか。」「県庁建設の入札で誰が得するのだろう?」


(つづく)

タイ王国刑務所 被収容者たちの悲痛な声 【ずさんな逮捕・拘禁】 (その1)


タイ王国非常事態宣言と大量検挙(抄)
ウボン中央刑務所の「赤シャツ?」たち     ウボン日記~その7
            ウボンラ-チャターニー大学教養学部                      東洋言語文学科講師 高橋 勝幸
 
赤シャツの民主化運動を制圧するため、政府はウボンラーチャターニー県にも2010516日夜、非常事態を宣言した。非常事態宣言の絡みで728日時点、ウボンでは男性39人、女性9人の計48人がウボンラーチャターニー中央刑務所に収容されている。この他にも、既に釈放されたが、夜間外出禁止令により、少なくとも17人が拘束された。その中には14歳未満の男子も含まれる。また、非常事態宣言違反で一人が少年拘置所に収容されているらしい
 
 因みに、
78日現在、コーンケン県で10人(内女性2人)、マハーサーラカーム県12人、ムックダーハーン県23(1)、ウドーンターニー県54人(10人)が各県の刑務所に収容され、事情聴取、裁判中の模様だ。
僕が初めてウボンラーチャターニー中央刑務所へ赤シャツの被勾留者を訪ねたのは617日(木、920-13:40)である。ウボン大学の同僚、学生、地元赤シャツ、バンコクの人権NGO6人に僕がついていった格好だ。この時には、男性20人、女性6人の26人が勾留されていた。僕らが面談したのは、男性15人、女性6人の21人である。訪問の目的は、人道的立場から逮捕の経緯、取調べの状況と勾留の状態を知ることであった。もっとも訪問した6人は皆、赤シャツのシンパで、何とか被勾留者を助けたいという思いでいた。その後、かれらは非常事態宣言解除要求の署名運動、宣伝・募金、家族との連絡など救援活動を行なっている。
 
男性の監房は広さ6m×4m24平米だという。食事、水浴び、排泄も同じ監房で行なわれている。3食付で、7時半、12時、4時に提供される。隅にトイレ(水浴び兼用)がある7時から 15時半まで隣接の仕切られた広さ60平米の草むらに出られる。座って雑談するだけで退屈だという。監房には仏像と国王の写真がある。書籍は仏教関係のみである。テレビが設置されており、1821時まで映画、歌謡番組、ドラマを見ることができる。ニュースを見ることは許されない。午後10時就寝。当初は20人だったので広々と感じたらしいが、39人になって、一人幅40センチ、頭と足を交互にして、4列になって寝ている。寝苦しい。
 
   女性の監房は他の犯罪者と一緒で、麻薬で捕まった人、エイズB型肝炎の患者もいる。他の犯罪者からは政治犯として疑いの目を向けられる。監房には蚊よけ網戸、扇風機、タオルケットがある。寝るときも消灯しない。狭くて枕の幅しかない。監房の中にあるトイレはさえぎるものがない。食事がまずく、6人でお金を出し合って買うこともある。食事の時間が5分しかないこともある。(自由な時間が少ない。一日中、交代の仕事があるともいう。懲役・研修か?)みな肌色の囚人服を着ているが、下着、生理用品が欲しいとのこと。
 
制限があるものの、家族親戚の訪問は可である[2]。弁護士等の直接面談は事前に文書で訪問相手の氏名を伝えればできる。見舞品は「危険物」を差し入れすることを防止するため、食物・衣服以外は刑務所で購入しなければならない。僕も簡単な文書を作成し、単独で722232829日の4回訪問した。刑務所の僕に対する対応は優しい。僕は焼き鳥、ソムタム、焼き魚、もち米、とうもろこし、果物、お菓子を刑務所前に並ぶ屋台で購入し、赤シャツに差し入れした。
裁判は既に78日、9日、16日に3回行なわれており、起訴されて容疑の説明を受けた者がいる。次回は82日に裁判がある[3]。また同日、国家人権委員会がかれらを訪問するという。
 
僕が理解に苦しむのは、判決前の人がなぜ刑務所に勾留されているのかである。非常事態勅令12条は容疑者の勾留について、刑務所での監禁を禁止し、勾留期間は7日を超えてはならないとし、その延長は最大で30日間までと定めている[4]

 ウボン県では728日現在、364人に逮捕令状が出されている[5]14日、僕はウボン県警を訪ねた。騒乱事件個人情報センターが1階に設置されている。25平米ほどの部屋の両壁には、手配中の赤シャツの拡大写真が張りめぐらされていた。係官が一人、机の上に積み重ねられたファイルを前に座っていた。印刷されたばかりの赤シャツの手配のポスターが数百枚積まれていた。各所に配布され、掲示される予定だ。僕の住むワーリンチャムラープ郡警にも行ってみた。ポスターが数十枚あった。24日には、県警の騒乱事件個人情報センター入り口と郡警の掲示板にポスターが張られていた。25日現在、ウボン大学前の区の警察署にはポスターは届いておらず、管見の限り街頭にも見当たらない。
 
[2] テレビカメラと電話を使った間接面談。人数の多い男性囚人は毎日面談できるが、女性は水・金のみ。面談時間は20分ぐらい。並ばなければならない。差し入れも同様に日時に制限がある。
[3] 裁判などで外に出るときは、足錠の鎖を付ける。
[4] 遠藤聡「『非常事態勅令』の法制化」『外国の立法』No.227, 2006.2, p.171.
 
本稿は人道的見地から、そして今後の研究資料として、被勾留者42人との面談記録を主とする。非常事態宣言下のウボンにおいて、赤シャツ運動の調査は容易ではない。いかなる理由で拘束されるかわからず、赤シャツは地下に潜行している。地下への潜行とは、公然活動をしていないということである。誰が赤シャツか判然としない。わかっても、今は自由に面談することは憚られる。刑務所での面談はなおさらである。その言質が命取りになることもあろう。面談相手は慎重に言葉を選ぶ。語るべきでないことは語らない。あるいは、その発言は自己弁護に走る。監視つき、金網と鉄格子越しの面談は僕にとっても緊張をもたらす。記録のデータは不揃いであるが、年齢、住所、職業、所属、逮捕の経緯、容疑、証拠、実際、その他の順に整理するように努めた。最初の訪問は手分けして面談することになっていたので、他人が面談した記録も含まれる。全員に対する面談はできていない。これからも逮捕者は増えていくことが予想される。僕は今後もお見舞いも兼ねて、対話を続けていこうと思っている。

 
★面談記録★
 
男性:(面談実施日617日) 
519日に県庁が燃えたとき、現場にいなかった。6月初旬に捕まった。入所して約1週間になる。同室に20人が収容されている。すべて赤シャツだ。狭苦しい感じはしない。食事はよい。サービスはいい。
 
男性:(617日) 
自営の商売の他、日雇い。ワーリン郡在住。チャックトンロップ(戦旗掲揚グループ)会員[6]。ほとんど活動に参加していない。69日午前8時にワーリン市場で捕まった。容疑は武器不法所持と県庁焼き討ち。県庁焼き討ちの罪は重い。武器不法所持が本当なら、なぜ現行犯逮捕しなかったのか不思議である。証拠はない。ウボンの警察佐官が取り調べた。写真を提示され、その中に写っている人物を知らないかと尋問された。写真を見ても誰も知らなかった。519日は県庁にいた。県庁舎の2階から火が出た。軍人、警官は火を消そうともしなかった。当局が人民を射撃した。保釈されたら、証人がいるので裁判で戦いたい。取り調べ、手続きに時間がかかりすぎる。監房ではニュースが入らない。仏教の本しか置いていない。監視人はいい。腹が立つことに、プアタイ党議員も職員も見舞いに来ない[7]

[6] チャックトンロップ20088月に発足したウボンで最初の赤シャツの組織であり、ウボンで最大のグループ(201058日現在会員5,562人)である。
[7] チャックトンロップ民主党を非難し、プアタイ党を支援していた。
 
 
男性:(617日) 
66。市内在住。チャックトンロップ会員。警察から電話があって、出頭を命じられた。現在、自分には10人以上の政治集会への参加、県庁焼き討ち、公共物破損の容疑がかかっている。勾留は延長され、24日間既に勾留されている。6回まで延期できる(84日間)。県庁の焼き討ち時に、庁内に建つラーマ5世王の像の東側で、自分が驚いて両手を挙げている写真が証拠になった。その日、私は県庁の外にいたが、警察の射撃の音を聞いて、子孫たち(仲間)を助けようと、敷地に入ったのだった。それまでは年寄りはみな外にいた。まだ、県庁は燃えていなかった。警察、軍、警備員が立っていた。自分は大通りに戻った。小さい火が建物からあがった。国王は関係がないので、国王の旗を柵から外して、警察に渡した。兵は庁舎を守らなかった。消防車も来なかった。100人もいれば消火できたはずだ。点火したのが誰かは知らない。県庁には放火すべきではなかったと思う。今回のデモには、312日から王宮前広場で15日間、410日から3日間ラーチャダムノーン、その後ラーチャプラソン15日間滞在した。ウボン県庁前の夜の集会にも、時間があれば参加した。人権の立場から、援助してほしい。
 
男性617日) 
63。市内在住。チャックトンロップ会員。69日逮捕され、610日より勾留。10人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。519日、家にいたので、集会には参加していない。ただその朝、スタット・ガーンムーン民主党国会議員の家でタイヤが燃えているのを目撃した。県庁の焼き討ちはよくない。人民の財産の破壊であり、賛成しない。残念なことである。軍警の仕業だと思う。王宮前広場で312日から3日間、デモに参加したが、楽しかった。政府は正しくない。プアタイ党の見舞いがないのは不満に思う。
 
男性:(617日) 
28歳。日雇い614日に逮捕された。10人以上の政治集会参加、焼
き討ちの容疑。519日に現場(県庁)にいなかった。2年前に撮られ
た写真が証拠になっている。不当だ。
 
…つづく…
 

民主主義は根付くでしょうか?タイ式【天安門事件】 進行中

(選挙では決して勝てなかったのに 軍事クーデターのおこぼれで政権についている)政府軍が、
解散総選挙求める 平和的なデモに 実弾を打ち込み続けています。

危険なのは、反政府運動の市民たち(赤シャツ)ではなく、実弾を水平射撃する政府軍です。
 
(発表された) 死亡者の 内訳でも、
政府側は一人しか亡くなっていません。
市民側は 今、38人。(← もっと増えることでしょう)

(赤シャツは そんなこと↓ 一言も言っていないのに、)
政府側からの、【フランス革命が手本】だとか
 【王政廃止をもくろむテロリスト】
だとかいう 洗脳的な報道宣伝、レッテル貼りの大波により、
都市のタイ国民や日本人の中には
公然と「射殺せよ!皆殺し!」を叫ぶヤカラも多いです。
......朝鮮人が井戸に毒を入れた...ってやつ?...
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3泊4日で ベトナム中部バス旅行に行ってきました~!

あら、YAHOOブログ 書きやすくなってるね ちょっと試してみようっと…

お!今日は3月30日ですねぇ…。
【フランシーヌの場合】の曲でも どうぞ♪
 
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それはともかく、
僕たちの旅程(3月27~30日)が
ちょうど 南ベトナム「解放」35周年の記念行事の最中に当たっていて、
 
フエは3月26日、
ダナンは29日、
ホイアンは28日…という具合に
それぞれの街の解放?(と呼んでいいのかどうか 実は疑問だが)」記念日
ほぼひと月 掛けて 徐々に南下しながら
4月30日のサイゴン陥落 まで続く らしかった。
 
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◆ 学生時代の僕なら
町じゅうに延々と並んで翻る 星のマークの赤旗を誇らしく仰ぎ見たことだろうが、
今となっては 独裁党既得権擁護キャンペーンに見えてしまう。
学生時代に読んだ ホーチミン『我が民族は英雄』を持っていって
現地で読み返してみたが…
読めば読むほど、
彼の【独立と自由ほど尊いものは無い という戦略スローガンは
肝心の【人命
消耗品として軽視し尽くしている ことが判明してくる。
◆ また、ホーチミンは、(←もし もう少し生きながらえて いたとして、)
アメリカに勝利したあと、一党独裁を いつの日にか放棄するハラを持っていただろうか?
独立」「自由」に並んで
 「民主」… 「民主」と  言葉だけは連呼されているけれども、
とても 国家権力を自ら放棄しそうにはない、「指導者とした文章が続く…。
 
その点、中国の革命の父と呼ばれる孫文は、 エライ!
【権力奪取】後、→【軍事的一党支配】→【民衆を教育】→【民衆の自治へ】…と、
段階的に…ではあるが
民衆に委ねる方向の戦略的展望を(一応) ちゃんと書いている。
(↑↑これは孫文の廟堂の壁の文章を訓読方式で読んだ。 感動してパンフも買ってきた。
 
現に 一向に 民衆に委ねそうにない(?) ホーチミンの党の言う「民主」とは…いったい何なのだろうか?
 
 

日本語キャンプで【滝巡り】

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第一回「日本語(学科の)キャンプ」
※ [写真]はクリックすると ちょっとだけ大きくなります。

◆ 軍関連のキャンプ場で一泊して、翌日は「滝巡り」。

実質は 四年生の「卒業旅行」という ところかな…。
……僕が かつてセッティングした中で最高?の修学旅行となった【伊豆の温泉巡り】を 思い出します。
アレは良かったなぁ…。海の温泉、山の温泉、昼の温泉、夜の温泉…。
温泉、良いなぁ~~!(タイでは そもそも お風呂に入る機会がほとんど無い)

写真を見ながら つくづく思うことの一つは、
若い女性の ナマ足 だけは、
目にすることの かなり多い職業だ ということ ですねぇ。

これで、
彼女の成績はA、かのじょはD…と、足が「成績?」と関連して見えなければ
もっと楽しい?んでしょうが…(^^)

明日から【期末試験】なんですが、
まだ問題ができて居ません…ちょっと あせります…
それにしても、

なんで この試験直前!に 学科を挙げて【キャンプ】なの??


◆ 日本では 言わば最も寒い時期ですが、タイでは もう「初夏」を超えてかなり暑い日々です。

四月、五月は、♪♪♪♪夏休み♪♪♪♪