タイ王国の非常事態宣言と大量検挙 (その2)


タイ王国非常事態宣言と大量検挙(抄)
ウボン中央刑務所の「赤シャツ?」たち     ウボン日記~その7
            ウボンラ-チャターニー大学教養学部                      東洋言語文学科講師 高橋 勝幸
(その2)


女性:(617日) 
23歳。飲食店勤務。チャックトンロップ会員。スリン県のバスターミナルで逮捕。県外の友人から涙ながらの電話があった。何も知らない友人は警察に写真を突きつけられて、彼女の友人の居場所を聞かれたというのだ。勾留は524日から。容疑は県庁焼き討ちなど13項目。519日午後、民主党事務所、同党議員スタットの家、県庁と3箇所で反対運動に参加した。県庁にいるところを写真に撮られた。その日、県庁で兵が人民を銃撃したので、頭に血が上った。(涙ぐみながら)足を撃たれた人も、捕まって同じ監房にいる。撃った人はどうなっているの。6人が負傷し、一人は重傷だ。ゴム弾を使えばいいのに、実弾を使う必要はない。県庁は新しく建てることができる。しかし、家族は生命を取り戻せない。赤シャツはテロリストだといわれている。農民に武器はない。銃を売買しているというの。兄弟同志が民主主義を要求して立ち上がった。我慢ならなかった。監房ではニュースを知る権利もない。45日前にこっそり新聞を読んだ。


女性:(617日、722日) 
54歳。ワーリン郡在住。主婦。ノーポーチョー・ウボン。郡警に逮捕令状が出ている人の写真と名前を見に行って、捕まった。522日から収容されている。10人以上の政治集会参加、県庁焼き討ちの容疑。519日市内のサパシット病院に用事があり、市内に出たところ、多数の兵士が出動をするのを目撃した。10時半ごろである。そこで、県庁に行ってみた。私の夫もサパシット陸軍基地に勤務する陸軍1等准尉なので、軍人の知り合いが多い。同基地のピシット・シーサン大佐が県知事と一緒に県庁にいたので、掛け合った。ピシットは現場を監督し、兵に命令を下していた。私は「銃撃を止めなさい。人民を殺さないでください。暴力を使わないでください。同じタイ人なんだから、平和的に非暴力でいきましょう」と話した。私は銃声を聞いて、逃げ出した。銃撃は庁舎の2階からあった。別の部隊である。また、地上左側の木のそばにも別の部隊があった。この2つの部隊が銃撃した。ピシットは非武装で立って、命じていただけ。退却を命じた。ピシットの部隊は退却した。銃撃は散発的であった。県庁が燃え出す前に帰宅した。59日にラーチャプラソンバンコクの集会)からウボンに帰って、時間があればウボン県庁前の集会に出ていた。寝食の状況よくない。睡眠薬がないと眠れない。弁護士をつけてほしい。早く家に帰りたい。いくら高くてもいいから保釈してほしい。経済問題は無い。車も家も抵当に入れ、銀行から金を借りても、保釈金を払う用意がある。夫、親戚と人道活動家が慰問に来た。子供とは会わない。囚人服姿で子供に会いたくない。娘が心配で、恋しい。(胸がつまり、涙ぐむ。金網越しに握手を求める)


シニーナート・チョムプーサーペート(女性③:617日) 
29歳。ピブーンマンサーハーン郡在住。農民。野菜小売。廃品回収。日雇い。521日から収容。628日が3回目の期限。容疑は役所への侵入、公共物破損、県庁焼き討ち、非常事態宣言違反、公務執行妨害519日の集会に参加し、門と柵が壊れているのを見て、県庁舎前広場の草地に歩いて入っていった。すると、右足を銃弾が貫通した。一日入院し、2日間家で療養した。そして警察が自宅を訪問し、取り調べのために連行した。子供3人には買い物に行って、まもなく帰ると伝えた。80歳の祖母が6810歳の子の面倒を見ている。高齢者手当て月500バーツで暮らしている[1]

[1] 夫も赤シャツ活動家で逃亡中。募金活動により5万バーツが集まり、保釈を要求したが、裁判所は拒否した。裁判所は公務執行妨害、役所への侵入、公共物破損の3つの容疑で41人に逮捕令状発行し、6人が逮捕されているという。この3つの犯罪による刑は15年の禁固[“Mother jailed over riot denied bail,” The Nation, July 15, 2010]


女性④:(722日)
32歳。自営業。コピー、文書作成。チャックトンロップ会員。523日より収容されている。容疑は公共物破損。5 19 日県庁が燃える前、ラーマ5世像のそばで立っているのが証拠写真だ。県庁が燃えているときは、敷地の外にいた。武器ももっていない。平和的方法を用いた。その日、兵は棍棒で前進してくる赤シャツをたたきつけた。そして倒れた赤シャツを踏みつけた。国会解散を要求しているだけなのに。なぜだ。不満が高まった。銃声が聞こえた。もはや赤シャツは死を恐れなかった。力を見せ付けたかった。私は5世像あたりにいて、警備員、完全装備の武装兵を見た。催涙弾、銃をもっていた。兵は放水もせず、ゴム弾も使用せず、実弾を使った。独裁だ。2人が死亡したとのうわさが流れた。実際は死者はゼロだった。人民の税によってなる兵がなぜ。怒りは爆発した。ラーチャプラソンの死も怒りに油を注いだ。私は兵のそばに行って問責した。一部の人の怒りは県庁焼き討ちになった。赤シャツの一部の仕業であることは否定できない。特に若者は過激になっていた。子供も収容されているときく。私はバンコクにも王宮広場へ1回、4日間行った。赤シャツの理想に引かれた。二重基準に反発した。タクシン時代、学生奨学金が提供され、麻薬・犯罪取締りが行なわれた。今、犯罪が増えている。経済も違った。1日3,000バーツの稼ぎが1,000バーツに減った。ガソリン代も上がった。政策がよくない。最近までビジネスに関心があって、政治には無関心であった。テレビ、ネット、ラジオのおかげで、今年になって政治に関心を持つようになった。2つの対立を知った。国会解散の要求、410日の衝突、死者の発生。黄シャツは死者一人だったが、政府は責任を認めた。一方、今回は民主党政権は責任を認めない。90人が死んだ。これで民主主義か。チャックトンロップのリーダーであるトーイのラジオを聴いて、34回トーイの家で、お手伝いした。ガソリン代を稼ぐために、グループの商売を手伝った。プアタイ党とチャックトンロップは、個人的意見だが、関係ない。民主党は好きでない。タイ愛国党が好きだ。選挙があればプアタイ党に投票するだろう。プアタイ党の見舞いがなくても、気にしない。独身。父は他界し、母は病気。兄が世話をしているが、仕事があって十分でない。母は520日に交通事故で肩を負傷した。


女性⑤:(617日、722日)
57歳。ターンスム郡在住。農民。チャックトンロップ会員。63日朝、警官が自宅に来た。事情聴取を求められ、終われば自宅に送ると言っていた。ところが、警察署に着くと逮捕され、自白しなければ罪は重く、自白すれば釈放すると言っていた。容疑は5 19日スタット国会議員の家の前と空軍基地前の集会への参加とタイヤを燃やしたこと。証拠写真があった。実際は物を売りに出かけ、帰途、煙が上がっているの見て、スタットの家の前の人だかりに近づいただけ。着いた時には消えていた。空軍基地には行っていない。2年前に赤シャツに参加した。バンコクの集会に行っていない。お金が無いので、弁護士も雇っていないし、保釈も要求していない。貧血症だが薬の支給無し。逮捕されて、大学1年生の息子の学資に困る2人の孫の世話、学校の送り迎えもできない。
女性⑥:(722日)
40歳。主婦。チャックトンロップ会員。78日から収容。逮捕令状に応じて、自首した。逃げられない。空軍基地の集会参加、騒乱、その他の容疑。証拠写真は自分の写真ではない1時間だけ尋問があった。519日は家にいた。裁判は2回開かれた。容疑を聞かされた。長かった。次は 8 2日。赤シャツに今年参加した。バンコクに行っていない。活動していない
 
女性⑦:(722日)
42歳。ワーリン郡在住。主婦。野良犬の世話。植木の販売。チャックトンロップ会員(2ヶ月)。自宅で逮捕。524日から収容。容疑は非常事態宣言違反、騒乱、県庁焼き討ち。519日午前10時ごろ、民主党事務所前で演説した。「政府の統治はよくない。我々は政府のバンコクでの暴力行使に反対するために来た。公共財は破壊しない」と。次に県庁前の通りに行って、中に入っていない。車を燃やしたというが、外にいた。銃撃で倒れる人を見て、死を恐れ逃げた。火災の前に帰宅した。イギリスとタイの2つのパスポートを持つ。12年ロンドンに住んだ。夫はイギリス人で裁判を傍聴して帰った。13歳の男の子が一人いる。

女性⑧:(722日)
30歳。自営業(歯磨きなどの製造)。自首し、7 8日から収容。証拠写真に自分が所有する車519日は仕事の打ち合わせ(商品の紹介)があったので、集会に参加していない。県庁のそばに会社がある。駐車しただけ。赤シャツには517日から昼の集会に参加した。2人の子とおばあちゃんの世話がある
 
残された家族との面談
僕(健の友人高橋)はチャックトンロップのリーダーであるピチェート・ターブッダー(通称トーイ先生)の自宅に妻を3度訪ね、530日に1度会った。夫が重大な罪に問われている以上、彼女はうかつに僕と語るわけにはいかない。非常事態宣言布告前にも何度か行ったが、その時は、仲間が入れ代わり立ち代わり訪れ、食事をしたり、談話したり、作業をしたりしていた。何だか、チャオポー(地方のボス)の家とはこのようなものなのかなと、勝手に想像したりした。しかし、一斉逮捕後は全く閑散としていた。
  
715日、シニーナート・チョムプーサーペートの自宅に行った。彼女は、私たちの活動により、既に新聞、テレビで報道されているので、僕は実名を明らかにした。本当に田舎のあばら屋であった。こういうところから民主主義と公正を求めて、闘争に向かうのだなとしみじみ思った。祖母は言う。「なぜ、県庁を放火した人を射撃せずに、庁舎から150メートルも離れた所にいた孫を撃ったのか。」「消防署まで500メートルしか離れていないのに、どうして県庁が燃えているときに消防車が来ていなかったのか。」「県庁建設の入札で誰が得するのだろう?」


(つづく)