「私たち、もうすぐ先輩になるんです…」という一年生たちと夕食。会食文化。

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◆「最初 日本語が 全然 話せません。
私たち、もうすぐ2年生、【センパイ】になります…」と
ちょっと誇らしげに
(そしてちょっと たどたどしい日本語で?)話す一年生たちと夕食。

センパイになる九月までには、もう五ヶ月もあるから
ちゃんと頑張れば 十分に貫禄を付けて先輩になれることだろう。


◆ クラスのともだちと一緒に[食事会]、[写真撮影]。
本当に楽しそうだ。
昼の2時半からスポーツその他延々と夕方まで。
(本当はコレに その後の麻雀などが付くらしい。)

◆ 日本にも確かに「同じ釜の飯を食った仲だ」というコトバはあるが、
その言葉は、そのまま「中国」にこそ! ふさわしいようだ、と
僕はだんだん確信しつつある。
(ただし、その「効果」がどれほど ねっとりと「長続き」するかについては、
日本のほうに ブがあるようにはオモウ)

少なくとも、
僕(らの世代?)の記憶にある限りの(体験的な、あるいは学習してきた)日本文化には
会食や、互いを祝福し合いつつ何度も何度も酌み交わされる「乾杯」のやりとりが
日常的にこんなに頻繁!に行われることは無かったような気がする。

我が学生時代のコンパ、飲み会ですら、
中国での この頻繁な「会食」の自然さに比べると、
何か特別な理由をこじつけなければ開かれない、
「わざわざ」実施する「イベント」という性格がもっと色濃く漂っていたような気がしてくる。

中国での「会食」一般は、
もっと遥かに「自然」な行為に属しているようだ。

※ もっとも、「自然さ」という点においては
「だれかれ問わず、いつでもどこでも、共に食事をする」?ような タイやラオスの文化の方が
比較の余地無く「自然」そのものであるが、
あれは もはや「会食」ではない! ので、この際考えないことにする。

日本での会食に比べると、
中国のそれは 言わば「毎日三度の食事をすること」と同様の、
そういう「自然さ」で「会食」が設定され実施されて行くような印象がある。

※ この【日常性】に類似している文化が もし日本にもあるとすれば、
それは まぁ、
【日本の政治家たちの連日の料亭通い】……だろうか。

よくは知らないが、
毎日のように料亭で食事するのが【当たり前】らしいから。

先ず腹に或る思惑が生じて その「タメ」に会食が計画されるのではなくて、
先ず会食するブンカがあって、「その機会を利用」して 或る思惑、策謀、利益供与の応酬があるらしい点で。
その「実施前の頭の中での順序」「自然さ、根深さ」という一点で。

……ひょっとすると中国の特権階級間の会食は、日本以上に「料亭的」なのかもしれないな。
「多分誰も自腹を切らない?」であろう点では、日本以上!とも言えそうだ。


◆ ふと、高校の「漢文」で勉強する『史記』の「鴻門之会」を思い出す……。

「謀反の疑惑」を晴らすために項羽の陣営に出向く劉邦
という話だが、
わざわざ自ら出向いたことや「会談」そのものではなく
【食事を共にする】という行為こそが
(おそらく日本以上に)「不和?を帳消しにする重要な行為」であって、
謝罪と弁解、容赦と和解を意味していたのかもしれない
だから?こそ項羽は暗殺に消極的になったのだろう
……と 今にして あらためて思う。

◆ もちろん、学生たちの会食には
それほどまでの「政治的」な思惑が絡んでいるわけではなかろう。

日本人の先生とも一緒だ!という珍しい設定の会食に参加していること自体で
既に充分うれしく思ってくれるらしく、心から楽しんでいるように見える。

ただ……、
「割り勘だろうと何だろうと 先生に払わせるなんて、トンデモナイ!!」という
もう一つ別の?中国文化が絡んできて
なかなか代金を払わせてくれないことが、

「学生のお金で食事するなんて、トンデモナイ!」と考える日本人としては
ただ一つの 重~大な【不都合】なのだが、
さてどうしよう……。