突然ですが、三月堂は月光菩薩。「ぼっキ~」君は童貞のまま。

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◆ 一応、クリックで拡大可能です。

(でも、元は 学生時代に買った 絵はがき なんですけどね、あはは)

牧場物語余録

◆ 「ぼっキ~」君、やや未成熟のため 童貞。

つい先日、♀牛が発情期の兆候を示しているというので種付けに行った。

以前も 何回か試みたのだが、タネ牛たちにも「好み」「相性」があるらしく、
なかなか交尾に至らなかったのだ。

せっかく購入した「ぼっキ~」君が居るじゃないか、
「ぼっキ~」君に嫁さんを!
……となるのが筋なのだが、

残念ながら、ぼっキ~君、人間からすると十分に大きいのだが、
タネ牛としては 「褌担ぎ」。まだまだ!! なのだ。
というのも、第一、背丈が足りない。

構図としては、
ラブラドールは確かに「大型」犬だが、
セントバーナードに乗っかっても 肝心のいちもつが 届かない。
……といった風情。
ぼっキ~の 目の高さ に♀牛のしっぽのつけ根がある。という感じ。
目の高さと、腰の高さ……もう ちょっと。か?

まあ♀牛がしゃがむか中腰にでもなってくれればいいのだが、そうまでする♀牛は居まい。

来年以降に期待しよう。
「ぼっキ~」君、
せっせと草を食べて、どんどん大きくなるようにネ。



◆ 千晴さん、奈良時代の日本の仏教って、既にいわゆる「大乗」仏教ですよね?

修行者だけが救われるのではなくて
衆生いっさいが成仏可能という……。(大乗 他力)

「念仏を唱えさえすれば罪人も何もかも救われる」という親鸞たちの教義がまだ無かった?時代の
大乗仏教って、どうやって衆生が救われる教義だったのでしょうか。
それってやっぱり、
現代タイのと同様、 仏法僧への喜捨の多寡 によって
……だったのでしょうかね?
それならば、貴族たちしかゴールイン(成仏)できないのかなあ。

◆ このところ、『歎異抄』とか『ダライラマの仏教入門』とかの本を開いてみています。

歎異抄』の結論は 実に単純で明快ですね~!
「本願を信ぜんには、他の要もあらず、念仏にまさる善なきゆへに。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」


念仏以外に必要なことは何も無い、「念仏以上の善行は無い」のだから それだけで十分なのだ。
これまでに犯した いかなる極悪をも怖れるな、
阿弥陀如来のご意志を妨げうるような悪はあり得ない」のだから安心して縋れ。
(自分が悪人だと自覚している分だけ一層見込みがある?)

生家が浄土真宗でしたから子どもの頃から染み込んだものがあるせいかどうか、
南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば……というような教義が極めてしっくりと身近に感じられてます。