牛さんの放尿、ハチさんの豪邸計画、かぼちゃになりきれない健さん。

イメージ 1


◆ 福島 英『声がみるみるよくなる本』
まだ途中。
無論、トレーニングしないで「みるみる」よくなるわけはない。

ただ、ずっと以前、某演劇系レッスンを囓った頃からの確信であるところの
「声は 気です」「伝えよう!という 気です」に
ピタッと適合する言語音声観が根底にあって、
しかも、N整体や K合気道の先生らが言いそうな「からだ」観が随所に展開されている。
……たぶん、この著者は本物だ。(ははは)

この本を参考にして 毎日 意識して暮らしてさえいれば、
「いつの間にか」(←と、この辺りが じつに本物っぽいと思う健さん
いい声で元気な暮らしになりますよ、という本である ようだ。

それはそうと、

何となく かなしい気分……。

牧場物語余録

◆ 昨日の「小事件」の筆頭は、牛さんの放尿だろうな。

ぼくが玄関先でボイストレーニングの本など開いていたら、
いつになく慣れ慣れしそうに牛さんたちが寄ってきた。
『お、警戒感が いくらか解けてきたのかな?うれしいな うれしいな』
などと思いつつ、
ぬうっと顔を近づけるので、首のヒダヒダとか耳の裏側辺りを撫でてやったら
結構うれしそうにじっとしていた。
そこまでは良かったのだ。

ちょっと部屋に入ってお茶など入れていた隙に、
牛さんの一頭が家の中に踏み入って、放尿に及んでしまった。

どう言えば伝わるだろうか、
瓶ビールを2、3本 床に落として割ってしまったような「黄金色の大海」出現だ。
幸い、日本のような畳の床じゃない分 助かるけれど
こんなことなら大便の方がよっぽど処理しやすいよ~~!

勿論後始末はしたけれど、いつもござを広げてご飯を食べる辺りが
ちょっと臭い、あはは。


◆ 昨日、今日と、
ぼくが机に向かっていると、
ハチさんがなにやら獲物らしきものをひっさげてぶーーーんと
例の一時の方向めがけて飛んでくる。
おいおい。めげずにあの豪邸計画をつづけているんじゃないだろうねえ……。

◆ 某所の「電話面接」終了。

何となく かなしい気分……。
何一つうまく答えられなかった。

「即戦力」か どうかといえば、直ちに! とは いかないよ……。
自前の学校ならいざ知らず、
好き勝手にやっていい わけでもないだろうしなぁ。

だいたい 何が哀しいといっても、
自分の「あした」が、自分の手中に無い というのは
哀しいね。
この気持ちを 一句詠もうという気分にすらなれない。

◆ 哀しみのレベルこそちがえ、
昔 感激しながら観ていたテレビドラマの『ルーツ』でだったか、
自分の子供が他の農場へ売られてゆくのをくい止められなかった
母親奴隷の嘆くシーンを思い出してしまった。

「旦那様」に懇願しても駄目だったのは当然のことながら、
たしか「家族同然」に仲良く暮らしていたはずの「お嬢さま」に至っては
奴隷の運命はそんなものよ とばかりに
一顧だにしなかったのだったな。


◆ その一方で 谷川俊太郎の「かぼちゃ」という詩も思い出す。

「きのうから ぼくはかぼちゃになったので
もうなにもかんがえることはない」……という詩だ。

畑の真ん中で、ごろーんと寝ころがって、、
「すこしずつおいしくなるつもりだ」という自負心を秘めつつも
運命に身を任せ「こぬかあめがきもちよい」という達観 だ。

ぼくはもう、
20年も この詩の境地を羨ましく思ってきているものの
どうもその境地に「至る」気配はないらしい。
どうしても、いろいろと考えてしまうんだなぁ……。

そうだな、
もしも縁あって、中級以上の学習者に出会えたら、
早速 この詩を教材にしてみよう。

タイ人は面白がってくれるだろうか?
それとも タイ人たちは、
『あれ? ウチらはみんなそうやって生きてるよ?!』って思うのかな?