日本から、カンボジアから、「送ら」れて来た写真たち。

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名古屋城をバックに。
(ちょこっと金シャチが見えてますね?)
僕も入れてもらっていた日本語教育ボランティアサークル「あいち日本語の会」の課外授業風景。
こんなに盛大に……。楽しそうだなあ。ちょっとだけ帰りたくなっちゃうね。
送ってくれた春子さん、どうもありがとう!
あいち日本語の会のHP→ http://aichi-japanese.hp.infoseek.co.jp/index.htm

◆ 今年の2月に訪問させていただいた、カンボジアの孤児施設「BOC」の中心メンバーの一人
ROU君(21歳)に お子さん誕生!
名前は、やや日本語風に 「YUI」君 だそうです。
(ROU君の「母親」代わりだったから 今やおばあさん代わり?のKEIKOさん、
HPからの写真の無断使用 ごめんネ~)

……と書いたけど、
すぐにKEIKOさんから断りのメールをいただきましたので
ROU君とユイ君の写真は、このブログから外します。
興味のある方は、直接BOCのブログにアクセスして覗いてみてください。
BOC→ http://www0.yapeus.com/users/cdcapk_kh/

※ ↓↓↓KEIKOさんからのメール↓↓↓
健さん>>すみません、せっかくの写真掲載を頂きましたが、私たち「BOC」では、
その肖像・権利を要する写真や文章等に関して、
そのコピー等の2次使用は、すべての皆様にお断りをさせて頂いております。
 何卒ご理解を賜りたく・・

何の曇りもなく了解です。
BOCのみなさん、KEIKOさん、どうもすみませんでした。
2006.5.28


※ 以下、BOC掲示板への投稿を再掲。

ROU君、YUI君の誕生、おめでとう!

◆ ご無沙汰しています。タイ王国、ノンルア在住の伊藤 健です。
◆ BOCのみなさーん、もし今度機会があったら、リコーダーの合奏しましょうね。
僕も練習しとかなくては……。ドレミファソ~。ソラシドレ~。
◆ ROU君、YUI君の誕生、おめでとう!オーイの言うには、お母さんの腕の木綿糸は勿論のこと、ユイ君の腕の金のブレスレットも、額のおまじないも、おむつの結び目も、タイ王国イサーンの風習と同じなのだそうです。ひょっとすると、「クマエ文化」のほうこそが源流で、「ラオス文化」経由の「タイ東北部(イサーン)文化」になっている物かもしれませんね。
◆ 「ゆい」と聞くと、田んぼに囲まれて育った50代の僕などは、「田植えや稲刈りの時に 村落総出で互いに助け合うシステム」の「ゆい」を真っ先に連想してしまいます。(一冊本の大型国語辞典『大辞泉』にも載っていますから、広範な日本語なのだと思います)
◆ 農耕文化と直結しているこのシステム、オーイの話では「助け合うのが当たり前なので特に名前はない」というこのシステム、イサーンにも勿論あるのですが、お寺関係の儀式などを除いて、実質的にはだんだん崩壊の兆しが見えています。クマエではどうでしょうか?まだまだ生きているのでしょうか、それともポルポト時代に消えてしまったでしょうか。もし若い世代にはピンとこない制度であるのなら、音楽の老先生にでも訊ねてみてください。きっとご存じだと思います。「ゆい」=「村じゅう総出の助け合い、結束」、良い名前ですねえ、ヤマさん。
◆ たまたま、ハンセン病の元患者らが、かつて強制堕胎させられたり、中には7ヶ月や9ヶ月で「強制出産」(←そもそもこんな言葉の存在が驚きでした)させられた挙げ句に、生まれた「翌日の死亡」を告げられていた、などの、
……その子らの遺体(ホルマリン漬け標本!)を自分の手で葬らせて欲しいと政府に訴えている、というような話を読んだ直後にユイ君の写真を見たものですから、つくづく『ちゃんと生まれて来られて良かったなあ』と思ってしまいました。


ROU君!、鉄砲の好きな男に育てちゃだめだよ~!!

◆ ついでですがKEIKOさん、
いくらか「日本語を教えるための勉強」も した者として思うのですが、
日本国外での 幼い子供たちへの日本語教授については、
(実際 僕もタイで やや困惑しましたが、)
必ずしも「現地語が話せなければ駄目だ」とは、結論をだしていません。
子らの人数、教えるがわの考え方、構え方、【日本語についての】さらなる勉強、
(日本語が「話せる」ことと、それを「教え れる」こととは全く次元の異なる機能です)
いろいろと考慮すべきだと思います。

◆ KEIKOさん、「全面的な反省とか否定」はせずに、
(それでは、ボランティアや交流の今後に道を閉ざしてしまいませんか?)
先ずはカンボジア人教師と日本人ネイティブとの
互いの協力体制などを考えてみてはどうかと思います。
(ほら、NHKの語学講座や手話講座でも、必ずネイティブが活躍してるでしょ?)

※ 僕の基本的な考え方としては、
本来ならば、
仲介語・現地語の「通訳」やテキスト類などはやっぱり脇役であって、
「内省」で正しい文や「非文」を紡ぎ出せ、臨機応変に対処できる
「勉強したネイティブ」こそが主役ではないか?と
思っていたりする者です。