『ブッダの言葉』

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仏陀


◆ 千晴さんのコメントのお陰で、 32 という数字が仏教の古い教えにまつわるモノであるらしいことが判り、
タイまで持ってきている 僅かな(無論、積ん読 未読!の)《仏教関連書》を、あらためて眺めてみた。
 
 千晴さん おすすめの『往生要集』は無いのだが、『ブッダの言葉(スッタニパータ「お経集」)』という岩波文庫は持ってきている。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003330110/qid=1134300874/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-1667391-5721169#product-details

 その昔、出征する学徒が僅かな私物の一つとして あれこれの岩波文庫本を持って戦地へ赴いたという「ひそみ」に倣おうと、持ってきているモノの一つである。
 現存する もっとも古い教典の書物だそうだ。
死ぬ前に、必ず読み終えてみよう。それまでは死ねないね!


◆ 思えば、岩波文庫にも代表される、 出版物 というモノは、たいしたものだなぁ、やっぱり……。
岩波文庫」一つ取っても、コレがなければ 疾うの昔に地上から消え去っていたに違いない文化価値も10や20じゃないだろうな、と、こんな自分にさえ想像が付く。

 僕は今、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読み進めている途中なのであるが、
恐怖国家「ソビエト連邦」の70余年が、(意図的かどうかは措くとしても)あまりに分別も教養もない賤吏どもの手によって葬り去られたであろう もはや取り返しの付かない数々の文化価値について、ソルジェニーツインは いつになく感情的な筆致で 次のように書いている。

「ああ、この建物(ルビャンカ監獄)の中でなんと多くの新しい思想の芽生えと著作が滅び去ったことか!……それはまぎれもなく滅びた一つの文明である。ああ、煤よ、ルビャンカの煙突から降る煤よ!後の世の人びとに私たちの世代が実際よりも愚かで無能で、従順な世代に思われることが何よりも腹だたしい!」 と。(単行本 第一巻136頁)

 この本の別の箇所では、
反革命的であるとして没収され、その持ち主は銃殺されたであろう、当の「本」たちが 燃やされずに 「集められた」結果、ルビャンカ監獄の図書館から政治囚たちのリクエストに応じて《貸し出されていた》という滑稽な?話も出ている。
 図書の担当官が「革命的真理?」に疎かったが故の結果として!である。
 
◆ 文化の抹殺に無自覚的に、(或いは積極的に)荷担する、という意味で
実体験として、僕には笑えない過去がある。

 政治的にどこのセクトでもない者たち、
「無定見?」で「中間?的」で、「未熟?」な主体たちが、
どこのセクトたちよりも くだらない者に見えた時期が、
僕自身の中で ずっと長く続いてきた。

 それは例えば、平凡な主婦の「反原発」の叫びであったり、
 「売春がどうして犯罪なの?」と問う、政治的にニュートラルな若い思想であったりした。
(いや、もっとリアルでドロドロした例もあるのだが、
恥ずかし過ぎて ここには書けない)

今は どうだろうか? ちょっと 即答しかねる……)


◆ さて、仏教の話だが、

 アラビア語を齧ってみた折のことだ。もう10年以上前のことになる。
 エジプト人である先生が、エジプトの学校では「宗教選択の自由」が保障されており、ユダヤ教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、親が求める教室へと子どもたちが別れるのだという話をなさった。
 そこで僕が、感動して、
「じゃあ、僕がエジプトに住むことになったら、僕の子どもたちは、無宗教でいられるのですね?」と訊ねたら、
先生は びっくりしたような顔で、
(でも 日本文化に配慮してか、一応は「残念そう」に)
無宗教は学校では認められない」と言う。
『な~んだ……』と半分がっかりしながら(半分「笑い」をこらえながら)、
「でも、仏教徒 とかならいいんですね?」と畳みかけたら、
これ以上の 反 宗教的な議論 にはつきあえないぞ!という雰囲気で
「いいえ。 仏教は宗教ではありません。 」と断言されてしまった ことがあった。

 その時、ぼくは、目からウロコが落ちたように、
仏教本来の(ある種の)独自性、非狂信性、存在価値 が一気に判明し、
なんだか無性に 誇らしかった のを覚えている。
アラビア語教室へ行ってみて良かったこと の筆頭事項である。

 そうだよな、僕はやっぱり、
信じてしまうことからは始めたくないな。
 「本来の仏教」となら、共に歩めるかも知れないな……
というのが、
その時からの 僕のスタンスで、
先述の『ブッダの言葉』を購入し、
(いまだに未読ながらも)、タイまで持ってきている理由、である。

 なお、前掲のHPにある書評の一節に、
「ただ、現代日本語訳とはいえ一回目は退屈するかも。
時をおいてもよいから、原始仏教について知りたいと思って一度手にしたら、
繰り返しアタックするだけの価値ある書である。 」
……という一節があり、 気恥ずかしい やら、納得するやら……。

◆ おっと、この写真のお坊さん、タイ人なら知らない人は居ないはずだ、とオーイの言う高僧。
タクシン首相はもちろんのこと、王様や皇太子なども続々と面会に来るという高僧らしい。

 きらきらしいバンコクを避けて、コラートにいらっしゃるので、
みんなで 頭をぽこんと 叩いてもらいに行った時のもの。

 ぼくが今、一番知りたいのは、
例えばこの高僧が、本当はどういうつもりで、来る日も来る日も頭をぽこんぽこんやっているのか?
ということなんだけどね。

 野口整体も齧ったし、合気道もちょっとだけ齧った者の勘としていうと、
悟りを開いた人の《気合い》は、実際にも 人を元気にするのかも知れない……。
と思わないでもないのだけれど、
それはまた、仏教とは別の次元だよねぇ。