ナレースワン大王の独立宣言
ナレースワン大王とナレースワン大学……一字違い
◆ 武器を持っている青服の人物が大王。
後ろの赤い服を着ている人は、
多分ナビゲーターじゃないかと勝手に推測しておりますが、いかが?
牧場物語余録
◆ バンコクから、チェンマイ、チェンライ方面へ向かう途中の要所に
ピサヌローク という町がある。
※ 地図をクリックしてね↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukmark/24834670.html?p=1&t=2
このピサヌロークに ナレースワン大学 という国立大学があって
北部タイでは最も早くから「日本語主専攻」のコースが設けられた らしい。
もっとも 今ではチェンマイ大学、ピブンソンクラームラチャパット大学など、
北部地域全域としても日本語教育熱は高まっているようだ。
◆ この ナレースワン というのは、
バンコクのチュラーロンコーン大学と同様に、タイの 王様の名前 である。
特に、 自ら先陣を切って 騎象戦 で戦い、
ビルマからの 独立を勝ち取った 英雄的な王様として知られている。
少なくとも僕の中では、 騎象戦と言えばナレースワン なのだ。
……あはは、例の英雄絵本シリーズの絵の影響に他ならない……。
(僕の持っている絵本が、2004年刊行の第12版で、8千冊刷られている)
※ 絵本は以前にも出しました。↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukmark/22913113.html?p=1&t=2
◆ 以前紹介した、 冨田竹二郎『タイ日大辞典』 にも
さすがは冨田先生!
半ページ余りの かなり詳しい説明が載っている。
※ 大辞典の紹介記事 ↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukmark/21087079.html?p=1&t=2
「 นเรศวรมหาราช ナレースワン大王(2098-2147 ※ 西暦だと1555-1604)
スコータイ王朝のラームカムへーン大王 、
バンコク王朝のチュラーロンコーン大王 と共に
タイ国三大王の一人で
アユッタヤー王朝中興 の大戦術家。
……2106年 ビルマ王ブレーンノーンはピッサヌロークを攻め落とすと
養子という形式でこの人を人質に取った。
(※ 何となく徳川家康的?)
2112年 アユッタヤーが陥落し
(つまり、完全な属国となり果てたわけだ。)
タムマラーチャーティラート(※ 父親)が王位につくと、
王女をビルマ王に妃として献じ 2114年 代わりに王子を返してもらった。
王子は副王に任ぜられ、
ピッサヌロークにあって北部を統治するよう命ぜられた。
当時タイはビルマの属国の立場にあったが、
2127年 王子はビルマに進撃してタイの(※ と言うかアユタヤの?)独立を宣し、
シッタン河に至ってビルマ軍の先鋒大将を銃で射殺した。」
※ それにしても、…… 銃があるのに騎象戦 ? 不思議な戦闘ルールだね……。
※ 『地図がつくったタイ』
(トンチャイ・ウイニッチャクン著、明石書店)からの孫引きなのだが、
1934年に初演された歴史劇「ナレースエン王の独立宣言」には
彼の台詞として
「われわれは祖国の独立をとりもどさねばならぬ。
独立こそは、わが生命の核心である。
プラテート(国家)が独立を欠くならば、
そのプラテートの民は人間の名に値しない」 というのがあるそうだ。
※ 「人間の名に値しない」 ……か。
ありし日のホーチミンに賛否を問うてみたい台詞だな……。
★ なお、言うまでもなかろうが、
大王の生きた時代には、
近代的な意味での「国境」だの「独立」だのという概念 は無かったはずなので、
劇の台詞は大王自身の言葉であろうはずがない点、誤解無きように。
※ また、この凱旋時の奇跡的逸話として
ビルマの都ペグーを懲らしめたあと、
追撃してくるビルマ軍を尻目に
一兵も失うことなく 河を渡ったナレースワンは、
たった一発の発砲 によって、
追撃してくるビルマ軍の司令官を射殺したことになっている という。
(彼は 那須の与一か~?)
再び冨田竹二郎『タイ日大辞典』より……
「その後2年間にビルマ軍は3回タイに侵攻したが
王子はことごとく撃退。
父王の死により 2133年 即位。35歳であった。
この王の治世中に大きな戦事が7回あった。
……王は部隊の先頭に立ち、象に乗り単騎
(※ 侵攻してきたビルマ)副王の陣に突入し
副王と騎象戦を行って斬り殺した。
……同年 王弟を伴いカンボジアを攻め
ラウエーク王を捕らえ ปฐมกรรม パトムカム
の儀式(敵の首をはね その血で足を洗う)を行った。
……2147年 ……ビルマ軍を伐つべく兵を率いて出陣したが
チェンマイの北方ハーンの町で不幸にも病を得て陣没した。」
(※ へ~、「陣没」って言うのか……、どことなく「戦没」より戦闘的?!)
◆ ところで、このナレースワン大学のパヤオキャンパス(分校)のHP、
今年の年号に当たるところが タイ仏暦の 2549 ではなく、 649年 に
なっているんだけど、
タイの歴史と関係あるのかなあ……?? オーイは見たことがないという。
理由のわかる方、教えてくださいな。
→→→ http://www.pyo.nu.ac.th/