タオスラナリの話(あらすじ)

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◆ いっぱい書きすぎて、YAHOOの字数制限に引っかかり、
前回の所へ積み込めませんでしたので
以下、別項目としました。(オイこら,YAHOO!!)

写真はヴィエンチャン領主アヌウォン王の進軍。

 彼は敗退後ベトナムに亡命するがシャム軍に捕らえられてバンコクで処刑される。
 王都ヴィエンチャンは破壊され、以後、19世紀の末にフランスのラオス統治の中心となるまで復活することがなかった。
 ルアンパバーンなど残ったラオ人の勢力は完全にシャムの服属国となった。  (『東南アジアの歴史』 桜井由躬雄 181ページによる)

冨田竹二郎著『タイ日大辞典』より「 ท้าว สุรนารี (タオ)スラナリ」の項。

【人物】スラナーリー(タイ王国仏暦2314~2395、※西暦だと1711~1852)。
 タイ四大女傑の一人。旧称 คุณ หญิงโม (※ モー夫人)。
 ナコーンラーチャシーマー(コーラート)の副知事夫人。

 ラーマ3世時の2369年(※55歳ですねぇ)ヴィエンチャンのアヌウォン王が東北地方を侵しナコーンラーチャシーマーに攻め込んだ。
その時知事、副知事を始め主立った人々は、クカンの知事が兄弟喧嘩で内紛を起こし武闘を始めたので調停に赴いていた。
 コーラートは簡単に攻略され、多くの住民が捕虜となりヴィエンチャンへと引き立てられて行った。

 ピマーイ郡のサムリット平原まで来て休んだときモー夫人は一計を案じ、
県民の婦女たちにご馳走を作らせサービスこれ努めてラオス軍の将兵を酔い潰した上、包丁や棒で襲いかかり多くの敵兵を殺し武器を奪った。
 ルアという娘は牛車に積んであった火薬に点火し、捕虜輸送指揮官と共に爆死した。

 モー夫人は県民を指揮して砦を構築すると、逃げ散っていた県民も続々と馳せ参じた。
 それを聞いてアヌウォン王は再び兵を差し向けたが、モー夫人はこれを撃破した。そこへバンコクからの援軍が到着し、ラオス軍は撤退した。

 ラーマ3世はモー夫人に「 ท้าว สุรนารี (タオスラナリ)の名を賜り、
ラーマ4世は彼女の夫を เจ้าพระยามหิศราธิบดี
(※ チャオプラヤー マヒッ…シヴァ神の如く偉大な偉大な最高の家臣…後半読めませ~ん。
チャオプラヤーというのはアユタヤー時代以来の最高の勲位で民主革命で廃止された)に叙した。
 ナコーンラーチャシーマーに刀をひっさげた彼女の銅像がある。